某国立大学で博士号(理学)取得後、経営コンサルティング会社に就職。
それもつかの間、会社を退職し職のあてのないまま妻を追ってインドネシアへ。
私(saya)が体験したこと、思ったこと、新しく知ったこと等を気ままに書いていきます。

シンガポール&インドネシアのことが中心です。

Singapore Life

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2016年7月10日日曜日

シンガポールの歴史 - "SINGAPORE A BIOGRAPHY"



先日、自身の英語の勉強もかねて、シンガポール国立博物館の物販で「SINGAPORE A BIOGRAPHY (Mark R. Frost / Yu-Mei Balasigamchow 著)」を購入。
概略を少しずつ自分の言葉で書いていこうと思う。
※完全にすべて翻訳するつもりではなく、部分部分を自分の備忘録を兼ね、また自分自身のモチベーション維持も兼ねて、少しずつ書いていこうと思う。当然、本書以外から得た知識も加えられていくだろうと思う。

TEMASEK 1300s - 1600s

1. REMNANTS FROM THE FIRE / 大火のあとに残ったもの


 1611年前後、シンガポールで大火があり島が壊滅したという記録があるらしい。歴史家は、それはポルトガルの仕業か、スマトラ北端付近のアチェの人たちがやったのだろうと考えているが、いずれにせよ情報は少なく確かなことはわからない。

Naming Singapore: some early sources / シンガポールという名前の由来:いくつかの昔の記録


 過去の資料の内容はまず疑ってかからなければならない。8世紀の中国の記録では、Peninsulaの先端にある島には王国があり、5,6インチの尻尾をもった食人民族がいるとある。これは、常識的に考えてありえない。
 信頼に足る記録で最も古いものは、14世紀の中国の記録であり、その島のことを"Longyamen - 'Dragon Tooth Gate'と伝えている。おそらくFort Siloso(セントーサ島の西端)を指しているだろうとのこと。当時、元(1271-1368年)の時代には、象は力強さと王族の象徴であり、1320年に元の皇帝が、象を捕まえてくるようLongyamen、ベトナム、カンボジアに兵を派遣したようである。その後、Longyamenからの外交使節が数年かけて元まで赴き、相応の貢ぎ物(結局、象かどうかはわからないが)を献上したと、元の裁判所(王宮?)の記録係が記載している。
 14世紀中期以降、記録での扱いはLongyamenだけではなく、島全体を指してTemasekと称するようになる。Temasekはおそらく、古いJava語(こう書くとプログラミング言語みたいだな。。。)に由来し、意味は「水に囲まれた土地」である。1330年代前半に中国のWang DayuanがTemasekを訪れたとき、Longyamenが目印として中国人のキャプテンたちに使われていた。同じころ、ベトナムの記録では、Temasekという言葉が使われており、ベトナムの皇太子はTemasekの外交官の言葉を話せたようである。
 Javaの記録によると、TemasekはJavaの強大なMajapahit帝国(13~16世紀)の配下の1州だったようである。
 Temasekは15世紀以降は中国の地図に継続して描かれるようになる。古くは、宦官のAdmiral Zheng Heの1403~1433年の旅行記に出てくる。しかしながら、マレーの記録によると、1300年以降Temasekは、”Singapura”「ライオンの都市」という堂々とした名前に変えたようである。南からはMajapahitが、北からはSiameseが、それぞれ領土を拡大しており、そのどちらかがTemasekに新しい名前を付けていただろうと思われる。
 1400年までにはシンガポールは地域の中で認知されていた。小さな島国であったが、ベトナムとは外交関係を築いており、Javaの人間から(そしておそらく、Siameseからも)羨ましがられていた。中国の元の皇帝からも象の供給地として注目されていた。では、どこの誰が、当時のシンガポールに住んでいたのだろうか。

The river settlement and the "Forbidden Hill" / 河川の設置と「禁じられた丘」

今日のFort Canning HillとSingapore River付近から発掘された考古学的物証は、現代のシンガポーリアンたちは想定よりも多くのことを先祖から共有していくことを示唆している。

※続く